全然特別じゃない今日をなるべくマインドフルネスに振り返る

涼しくなった。かるく扇風機で日中もOK。朝方なんて窓開けてたら寒いくらいであった。

ひとつのことに集中して仕事ができなくてもどかしい。なんでこうごちゃごちゃしているんだろう。なんでこう。

お昼休みにはマインドフルネスに冷やし中華を作り、もやしキャベツ炒めを載せて、卵焼きとハムも載せていただく。

明日は出社する。

東京にきつつまいんどにふるねする

  • 新幹線が止まったり動いたりしながら4時間近くかけて品川についた。その間、ずっとスマホとPCでごちゃごちゃやっていた。Swaggerのネタがほぼ出来てしまって、最後もう少しChatGPTにやらせるところがやりきれずに終わった。
  • ここの公開の方はどうしようか。色々調べたけど、たぶんDockerコンテナの動きとしてはyamlファイルを毎回読み込んで表示するだけの静的なHTMLファイルがデプロイされてるだけなんだと思うので、それをhtmlフォルダ配下の何処かに毎回更新する作りにするのが良い気がする。
  • ビジネスホテルに出張できて、大きなお風呂で目を閉じてゆっくりする。

今日が特別というわけではなかったがそれをマインドフルネスに振り返る

OGさんと初対面して会話。良い感じの人。結構一方的に情報を伝えてしまい、気負わせた感があって少し気にしてしまっている。厚くフォローしたい。と心の中でつぶやくと、自分には厚くフォローしたい人ばっかりやん、どうせできなくてがっかりするならそれこそ気負わない方がいいんじゃないか、なんて思ったりもするけど、場面場面で一生懸命やるしかないような気がする。結局また、頑張ろうとしてしまう。しんどくなるほど頑張らなくていいようにしているのに、まーた頑張ってしまって世界を平和にしようとしてしまう。

DevOpsについて活用促進を色々したいな、とまたちょっと火が付く。Azure DevOpsのPipleLineの設定を見るが、エージェントのプロビジョニングみたいなのは説明だけ見ると結構わかりやすい。きっとそれさえやればpipelineのyamlか何かでやれるんだろうなと思うが。

午前中はこまごましたことをやっていたら終わってしまった。売上見込み登録の件はまだまだ心配である。なんとなく心配くらいでクリティカルには心配ではないので、まあまあいい加減ですな。いうても。

 新幹線が行けるかどうかわからないという状況でなんとなく45分遅れくらいで到着したやつに普通に乗っている。世界はそう簡単にはめちゃくちゃにはならない。感情の揺れ動きはない。ふーんそうなったか、くらいである。

UアプリのSwaggerをもう一度しっかり作ってみるかな、と着手。ChatGPTさん便利。あらかた初版ができたので、これを温めて行く作業を新幹線でポチポチやってればナイス達成感も多少東京についたときにはあろうかの。

その前にちょろっと会議資料を修正する。

何ということもない今日を振り返るマインドフルネスなメモ

仏教的な解脱ということをちゃんと考えてみたい、と考える私はなぜそんなことに結構こだわって、これが何度も頭をよぎるのか、その理由は気になる。

シンプルには、心の安寧と、人間社会に生きるうえでのお金もかからず人に迷惑もかけずカッコ悪いこともせずに、幸福というものの形を自分でちゃんと決めないといけないという気がしているのである。その手段として、アンテナにピンと来たのは、曹洞宗の宗派の実家に生まれ育ったからなのか、それは全く関係ないのかわからないが、たぶんない方かな。自分の価値観や性質を形作るためのインプットはほとんどが家庭とかよりテレビや本ではないだろうか。違うかな、やはり一緒に住んでいた祖父母、親、兄弟からたくさんの影響を受けているんだろうか。

仏教、特に禅宗のことで好きなのは、座禅もそうだし、それが実際に苦しみから人を開放するんだっていうのが実は科学的にも証明されているらしいこと。曹洞宗の教えには、家事すらも、家事をするという意識だけで家事を大事にして暮らすという教えもある。これはいい。なんだか平穏だ。それが、最高の体調みたいなKindleでこの間さらっと読んだ本にも書いてあった。あれいい本だった。もう一回読み返せるかな。もう期限切れかなあ。スマホ見たら読めた。目次見返したら、思ったよりがっつり忘れてるのでもう一回読まないと。

今、なんとなくお客さんたちの顔と名前を意識に何人か登らせてみたが、ちょっと胸がキュっとなる。ということに気づいた。社内の人たちだとそうでもないが。

仕事で関わるお客様というのは、やはり思った以上に特別な存在なんだろうな。嫌いじゃない。むしろ結構好きなのだが。しかし、声が聞きたくてしょうがないかというと、どちらかというとNoに近い感覚がする。我々の会社の色んな人に、話を聞くのではなく、様子を観察していて思うが、これはおそらくみんなそうだし、私より強くNo寄りだろう。そうとしか思えない。そういう人ほどこの仕事における成長とは遠い気がする。自分はたぶんましな方。優秀な人は、そもそもの感覚としてYes寄りにいるのか、もしくは自己統制や目標達成へのこだわりの強さが行動を変えるのか。

思考が行ったり来たする。さっきの、こういうマインドフルネスとかを自分が好きになるのは、7-8歳くらいまでに自分がどう育ってきたかにやはり大きく影響を受けたのだろうか。そのころ自分はいったい、何を大事にしていて、何に感動していて、何がイヤだったろう。

ファミコンやスーパーファミコン、テレビゲームが死ぬほど好きだったが、買ってもらえなかったので友達の家にやらせてもらいにずっと行ってた。そしてずっとやってた。

ウルトラマンとかのレンタルビデオのダビングしたやつを見ていた。

体がずっと細身で、やや痩せ気味だった。ような気がする。背もずっと低かった。

友達と公園やら工事の資材置き場、川、缶蹴りとかポコペンとかして遊んでて、青木っていう文具やで駄菓子を買って食べたりしていた。

何の話をしていたのかな、あのころ。

コミックボンボンを買って読むのを毎月めちゃくちゃ楽しみにしていた。ガンダムとかが好きだった。

家で8人で食卓を囲んでいた記憶もあるが、あの時何の話をしていたんだろう。静かに黙ってご飯食べてた気はしないが。赤ん坊の末弟いたのかな、いたんだろうな。ううむ。だいぶ覚えていないが、一人の部屋に閉じこもって人形とかで遊んでたな。

なぜだかわからないが、「いい人」というのになりたかったように思う。「いじわるな人」「悪い人」「嘘をついたり人をだましたりする人」には到底なりたくはないと思っていた。同じように、お金持ちとか、高級車とか、そういうのにも憧れがなかった。なんでだろう。同年代はみんなそうなのかもな。そういう価値観ができる時代にバブルがはじけているのが原因なのか、故郷の田舎町の雰囲気がそうなのか。西宮とか、都会に出てきて全然違うかっていうと、違う気もしたが、なんかベースは近いような気もするけど。道徳教育みたいなのがみんなが意識しない程度でも、ちゃんとされてた時代だったんだろうか。

子供のころのこと、またちょこちょこ思い出してみよう。

妻の話きいて、ああ違うな、って思うことは結構ある。それをそう感じるの、えー、って違いを感じたときに、育った家庭の違いというのに由来してやっぱりこういうずれが起きるのかな、とふと思ったり、いや先天性の性質かな、と思ったりよくする。たった今気づいたけど、コレを切り分けて分析するの、結局そんなに意味ないんでは。いやそうでもないか。わからん。

なんでもない今日を、見つめて振り返るマインドフルネスなメモ

評価関連の作業と、会社での自分の次の1年の目標を立ててみた。弊社のタレマネツールへの入力を実施するのである。

今までと比較しても、去年ほどではないと思うが、やりがいのある楽しい一年になりそうだと素直に思いながら、ややスッキリしない感覚もある。なんでだろう。たぶん、組織とかの色んな人の意見を聞いたら、もうとこういうこともだろう、とか言われるかもしれないからだったり、単純に自分が本当はもっと大切にしていてこういうところに書けることもあるはずだろうなという感覚なんだろうと思う。

しかしな、本当は書きたいんだけど、なんかケチをつけられそうなネタもあるしな。ナレッジをひたすら、文書化して誰も文句付けれないくらい、今まで誰も作れなかったんじゃないかってくらいすごいのを作ってみたい。えらい人たちはふーんすごいね、であっても、本当に勉強をしてスキルをつけたい若い人が感謝してくれると嬉しい。

なんか今、気になって書こうかと思ったことが頭をよぎったのに通り過ぎてしまった。

思い出せない。

先週の土曜日に会社でやったイベントのこと、今日何度か頭をよぎった。楽しかったけど、やっぱり言い出しっぺとして、みんながどれくらい満足してくれたのかな、はとても気になっている自分がいる。Kさんも大変だったろうな、チャレンジやアドベンチャーは人生には必ず必要だが、この何とも言えない落ち着かない不安というのはどうしてもとなり合わせだ。こりゃまたこれから年齢を重ねるとどんどん強まっていく感情なのだろうか。これはわからない。過去20年くらいを振り返るとそうかもしれない。

楽しかったけど、疲れたし、なんだか色んな事に気を遣い続けた。結局、自分は人から見てどんな評価なんだろうということを気にしておびえている。人間はそういうものなのである。そこから解脱してみたい。自分は軽い方だと思うけど。もっとその重荷を背負ってそうな人は周りを見回すと結構いるけど。

社会心理学的な意味での”責任”というものについて考えてしまう。若手の時代から今に至るまで、徐々に責任が増えて、立場が上がって、仕事への対価も変わって、何とも言えない形のないプレッシャーを感じるようになってきている。年齢なのか、社会的責任のプレッシャーなのか、微妙にわからないが。でも昔は怖いものなしだったかっていうとそうでもないよな。逆のような気もしなくもない。結局記憶がゆがむから比較って難しい。

お昼のラーメンおいしかった。スープにゴハン入れて炭水化物大量にとってしまったが、そんなこともある。

うーんしかし、これからまた酒を飲んでしまうのか。どうするか。我慢するって決めればできそうだが。

妻や子供たちと何か砕けてリラックスした会話をしながら夕飯が食べれたらいいなと思う。なにか話題はあるかしら。一緒に暮らしている人とはもう話題がないよね。そんなことないか。普通どうかね。

blieve in life

エリック・クラプトンのbelieve in lifeという曲のコード指南のYouTubeを発見し、おおお、こう弾くんかと感動。すごい練習する。

息子にイントロのバッキングを無理やり弾かせてイントロのギターソロを試させてもらう。楽しい。

その後、家焼き肉しながら、家族で音楽の話ししてて、さらっとまたお酒を飲みすぎる。

効率が上がらない

めちゃくちゃすごい効率でアウトプットしたいと思いながらも、ひょんなことで引っかかってウンウン悩む時間が、結局品質を上げるような気もして経験値となるような感じもするけど、やっぱりすごい人が横にいてひゅんと助けてくれるといいんだろうな、と身を置く環境の大事さも感じる。

それでも結構もがいて勉強しているような気もするので自分をほめてあげたいような、イヤイヤ、このままじゃダメじゃないかな、とも思うような微妙な感覚。

ChatGPTを使ったRAGアプリを作ってて、そんなことを思ったり。

Bitbucketで急にVSCodeがリポジトリと通信できなくなってハマった

VSCodeでSphinxで書いているドキュメントを更新、Bitbucketを使っているリポジトリにPushしようとしたらなぜかできなくて、トラブルシュートですごい時間とかしてしまった。

エラーは以下。

fatal: unable to access 'https://xxxx.com/xxxxxx/xxxxx.git/': Recv failure: Connection was reset

Gitの認証情報が変わったのにどこかにキャッシュ持ってるのかなっていう感じがしたのでずっと、もう一度別フォルダにクローンしなおしてみたり、手を変え色々やってみたり、WindowsのCredential Managerみたいなところを見てここか!と思ったりしたけど関係なし。

結局、別環境用の設定が .vscode/settings.json にあって、そこにhttps_proxyが設定されていたのが、今の環境だと意味なかったというだけであった。Terminalで以下のコマンドを打つと急に何でもできるようになった。

set https_proxy=

もったいないことで悩んでしまった。