仏教的な解脱ということをちゃんと考えてみたい、と考える私はなぜそんなことに結構こだわって、これが何度も頭をよぎるのか、その理由は気になる。
シンプルには、心の安寧と、人間社会に生きるうえでのお金もかからず人に迷惑もかけずカッコ悪いこともせずに、幸福というものの形を自分でちゃんと決めないといけないという気がしているのである。その手段として、アンテナにピンと来たのは、曹洞宗の宗派の実家に生まれ育ったからなのか、それは全く関係ないのかわからないが、たぶんない方かな。自分の価値観や性質を形作るためのインプットはほとんどが家庭とかよりテレビや本ではないだろうか。違うかな、やはり一緒に住んでいた祖父母、親、兄弟からたくさんの影響を受けているんだろうか。
仏教、特に禅宗のことで好きなのは、座禅もそうだし、それが実際に苦しみから人を開放するんだっていうのが実は科学的にも証明されているらしいこと。曹洞宗の教えには、家事すらも、家事をするという意識だけで家事を大事にして暮らすという教えもある。これはいい。なんだか平穏だ。それが、最高の体調みたいなKindleでこの間さらっと読んだ本にも書いてあった。あれいい本だった。もう一回読み返せるかな。もう期限切れかなあ。スマホ見たら読めた。目次見返したら、思ったよりがっつり忘れてるのでもう一回読まないと。
今、なんとなくお客さんたちの顔と名前を意識に何人か登らせてみたが、ちょっと胸がキュっとなる。ということに気づいた。社内の人たちだとそうでもないが。
仕事で関わるお客様というのは、やはり思った以上に特別な存在なんだろうな。嫌いじゃない。むしろ結構好きなのだが。しかし、声が聞きたくてしょうがないかというと、どちらかというとNoに近い感覚がする。我々の会社の色んな人に、話を聞くのではなく、様子を観察していて思うが、これはおそらくみんなそうだし、私より強くNo寄りだろう。そうとしか思えない。そういう人ほどこの仕事における成長とは遠い気がする。自分はたぶんましな方。優秀な人は、そもそもの感覚としてYes寄りにいるのか、もしくは自己統制や目標達成へのこだわりの強さが行動を変えるのか。
思考が行ったり来たする。さっきの、こういうマインドフルネスとかを自分が好きになるのは、7-8歳くらいまでに自分がどう育ってきたかにやはり大きく影響を受けたのだろうか。そのころ自分はいったい、何を大事にしていて、何に感動していて、何がイヤだったろう。
ファミコンやスーパーファミコン、テレビゲームが死ぬほど好きだったが、買ってもらえなかったので友達の家にやらせてもらいにずっと行ってた。そしてずっとやってた。
ウルトラマンとかのレンタルビデオのダビングしたやつを見ていた。
体がずっと細身で、やや痩せ気味だった。ような気がする。背もずっと低かった。
友達と公園やら工事の資材置き場、川、缶蹴りとかポコペンとかして遊んでて、青木っていう文具やで駄菓子を買って食べたりしていた。
何の話をしていたのかな、あのころ。
コミックボンボンを買って読むのを毎月めちゃくちゃ楽しみにしていた。ガンダムとかが好きだった。
家で8人で食卓を囲んでいた記憶もあるが、あの時何の話をしていたんだろう。静かに黙ってご飯食べてた気はしないが。赤ん坊の末弟いたのかな、いたんだろうな。ううむ。だいぶ覚えていないが、一人の部屋に閉じこもって人形とかで遊んでたな。
なぜだかわからないが、「いい人」というのになりたかったように思う。「いじわるな人」「悪い人」「嘘をついたり人をだましたりする人」には到底なりたくはないと思っていた。同じように、お金持ちとか、高級車とか、そういうのにも憧れがなかった。なんでだろう。同年代はみんなそうなのかもな。そういう価値観ができる時代にバブルがはじけているのが原因なのか、故郷の田舎町の雰囲気がそうなのか。西宮とか、都会に出てきて全然違うかっていうと、違う気もしたが、なんかベースは近いような気もするけど。道徳教育みたいなのがみんなが意識しない程度でも、ちゃんとされてた時代だったんだろうか。
子供のころのこと、またちょこちょこ思い出してみよう。
妻の話きいて、ああ違うな、って思うことは結構ある。それをそう感じるの、えー、って違いを感じたときに、育った家庭の違いというのに由来してやっぱりこういうずれが起きるのかな、とふと思ったり、いや先天性の性質かな、と思ったりよくする。たった今気づいたけど、コレを切り分けて分析するの、結局そんなに意味ないんでは。いやそうでもないか。わからん。